土産に語らん

個人的に有益/無益だと思う情報をメモしていくブログ

なぜ、古今亭志ん生は面白くないのか

平成に生まれた私は、iPhoneに昭和のお笑いを入れてよく聞く。別に現代が嫌いなわけではなく、せっかく生で観れる人達を録音で聞く気持ちが起きないだけだ。だから、ふとしたときに再生するものは故人の録音に偏る。

 

特によく聞くジャンルは落語になる。これは今考えれば、小さい頃からテレビで育った自分からすれば、一人で15分(ぽっち)の長尺でネタを観る機会などなく「逆に」新鮮に写ったからだと思う。

 

このジャンルに行くと、大体の人がぶつかる存在に五代目談志があると思う。彼の芸はひとまず傍に置いておくが、図書館などに行くと彼の落語に関する著作が膨大に置いてある。だから一度は目にしたことがあるだろう。彼の本の内容については芸論と昔の芸人についてがほとんどだ。彼の文章は全編理屈で構成されている。思い出や感情も含めて。これは当時中学生だった私にとって落語の世界観を知るのにちょうど良い本達であった。

 

前に述べたように彼の著作には多くの芸人が出てくる。その中でも、もっとも褒められているのが五代目古今亭志ん生だ。当時、談志教ともいえるほど彼の著作を読んだ私は当然興味を持ったため、CDを聞いた。

 

正直な話が面白くない。ネットなり本を見ればベタ褒めされてる志ん生がだ。これなら三木助だったり圓生、馬生の方が面白いと思った。

 

これは何故だろうか。それは多分落語の聴き方によるものと思う。

 

志ん生よりも面白いと思った三人に共通することは、型が非常にしっかりしている。だから落語を聞くとマクラからオチまでが一つの作品として聞ける。乱暴に言ってしまえば、落語じゃなくてもよくて面白い話を聞いてる感覚に近いんだと思う。

 

それに比べて志ん生の芸風は、一般的に「豪放磊落」という人もあれば「緻密」と評する人もいる。これは両方合ってて、緻密にやりたいけど何処かが必ず崩れてしまう結果だと思う。本人は意図してやってないんじゃないのかな。こんな調子だから一つの筋をずっと聴くには無理のある構成になってる。

 

だから志ん生を楽しむには、落語を一つの物語りとして聞くのではなく、細かい挿話がたまたま繋がってるんだと考えて、その場その場で楽しむのが、一番楽しむ方法なんじゃないかと最近思った。

 

まあこれは一つの自分なりの楽しみ方で合ってるかは分からない。ただ後世に生まれて来た人間は、残されたモノでしか考えられない。だからどんなモノを聞いても一概に貶すことは出来ない。

全盛期に接せられなかった我々は、芸について評価をすることは出来ない。